平成の終わりに
去年発売された「平成くん、さようなら」を最近定期定期に読み返している。
初めて読んだときは、
本当にあの古市憲寿さんが書いたのかと驚いた。
TVなどのメディアに出演されている古市さんとはかなり印象が異なる小説だったからだ。
独特の結婚観だなぁ。と発言を聞いて思ったことはあったが、
彼と恋愛というものは遠いものどうしという印象だった。
であるから余計そう感じるのかもしれない、
切なく、脆く、繊細な物語である。
死ぬのは悲しいことだと思う、
会えなくなってしまうから。
そばにいて欲しいから。
声を聞いていたいから。
そこにその人というカタチが無くなってしまうから。
でも平成くんはそれを
「長く生きて欲しいと思うのは、残されたもののエゴだ」と言う。
少しだけ冷たい言葉だけれど、新しい視点だと思った。
平成くんと愛ちゃんの間で、
AIスピーカーとして登場する、
''人工知能(AI)''が重要な存在となる。
平成くんはどんな気持ちだったのか。
AIスピーカーが代わりに応答をすることは、
AIスピーカーが平成くんであることとイコールとしていいのだろうか?
「僕がどこか遠くへ行くとするでしょ。その時に愛ちゃんがスピーカーに話しかけると、世界のどこかにいる僕のところに連絡が来るんだ。だから、そのまま僕が返事をしてもいいし、何も応答しなかったら、今まで通り人工知能が勝手に答えを返してくれる」_平成くん、さようなら
平成くんらしい考えではあるが
人工知能が代わりなんてあまりにも切ない。
でも、同時に
それは残される者のエゴであり勝手なわがまま。
AIスピーカーに向かって
「ねえ平成くん、」と何度も呼びかける
愛ちゃんはどんな気持ちだったのだろう。
「ねえ平成くん」
「ねえ平成くん」
もしかしたら、
死ぬ=この世からいなくなる
死ぬ=悲しい
死ぬ=怖い
死ぬ=離れ離れになる
なんて、概念はいつか消え去るのかもしれない。
それが良いのか悪いのか幸せなのかそうでもないのかわからない。
でも死やそれに伴う愛の概念を人工知能が変え得るということは確かである。
もしそうなったとき、
では人間である意味は何だろう。
AIでいいじゃないか?
人間の儚さとは何だろう。
どうして人間を好きになるんだろう。
AIを好きになっちゃいけないのか?
愛情とは何だろう。
そんな問題にぶつかる時がいつか来るのかもしれない。